読んだ - 「世界のすべての朝は」

「世界のすべての朝は」(パスカルキニャール/伽鹿舎)
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無店舗書店のsumikaさんで
装丁の美しさが気になって手に取った一冊。
私は初めて知った作家だったけれど、
著者のパスカルキニャール
現代フランス文学を代表する作家、とのこと。
めぐり逢う朝」という邦題で映画化されたのち、
九州限定の出版社である伽鹿舎から昨年復刊されている。

 
読み終えて、神話を読んだようだと思った。
上代の、神がまだ人と共に生きた時代、
言葉以外の方法で、人間以外の者どもと、
意思をやり取りした時代。
主人公のサント・コロンブは、死んだ妻と言葉を交わし、
風の低音からアリアを聞き取り、
言葉にならぬもののために音楽を奏でる。
王からの宮廷への招きを断り、
妻が残した二人の娘と演奏を続けている。
けれどそもそも、物語は四〇〇年以上前を舞台にしており、
これらすべて過ぎ去った時代の出来事に過ぎない。
時代の交代とともに、
演奏家の誉れ高かったサント・コロンブは忘れ去られ、
彼の演奏したヴィオルも知る人ぞ知る楽器になってしまった。
そののちに訪れる人間のためだけの時代が、
私たちの生きる現在まで続いている。
サント・コロンブは実在の人物であり、
小説は史実を基にしている。
 
コロンブのように浮世離れして、
しかも素晴らしい演奏をする人間が存在できたのは、
時代がまだそれを許したからではないか。
今ではそれはもう難しくなってしまったのではないか、と、
実際にはよく知らない過去への安易な憧れを感じてしまう。
 
本来なら時の流れに従って消滅するはずだった
コロンブの音楽が現代まで遺ったのは、
マラン・マレがそうしようと努めたからだ。
マレの行為は流れゆくものを留めようとする楔だった。
音楽は川の流れのようなもので、
つかまえた、と思うそばから次の波が訪れ、
目の前には常に現在の音しかなく、
けれどすでに流れ去ったメロディと
現在とのつながりが音楽の形を成している。
川の中に楔を立てる行為は空しく、
それで川を留めることはできない。
同じように、鳴り終わった音楽の楽譜を記録しても、
演奏し終えた音楽は戻ってこない。
けれど、たとえ永遠に戻ってこない音楽の
上澄みの一滴に過ぎなくとも、
マレはコロンブの音楽がすべて完全に失われることを惜しんだ。
それは、マレがコロンブの弟子でありながらも、
家族ではなく血のつながりもない、
他人だからこそ望むことのできた願いだったのではないか。
そう思うと、マレがコロンブの娘と恋仲になりながらも
結婚することなく別れたのは、
結果からみて必要なことだったようにも見える。
マレの経験した変遷が、
彼が音楽を理解するために必要だったということ。
マレの、この世で最も美しい
コロンブの音楽を遺すという望みは、果たされる。
 
にしても、コロンブが音楽に抱く執着・拘泥・誇りは
常人にはまねできないが、
コロンブの秘された音楽を聞くために
凍える窓下にひそむマレも相当どうかしている。
彼も結局音楽に憑かれた者だったのか。
いや、時を経て音楽に憑かれた者になったのか。
 
静謐で壮絶な物語を楽しむ以外に、
するすると読みやすい日本語訳や、
その中の格好良い言い回しも楽しんでほしい。
王に招聘されて断る際の台詞、
「お伝え願いたい。わたくしのようなものに目をかけられた時に、
すでに陛下はあまりに寛大であらせられた」、
いつか誰かに使ってみたい。