感想文-本-『なるべく働きたくない人のためのお金の話』

honto.jp

人生目標を断捨離する本。
目標に向かって努力する、とか、その目標を達成する、って、
達成できれば嬉しいに決まってるから良いことだって思っちゃう。
それで、現状をよくするための方法の一つとして
「夢に向かってがんばる」はすごく推奨されがち。今でも。


でも目標が特に無い人はどーすんの?
目標はあんまり無くて、でも人生は楽しい方が良くて、
のんべんだらりと生きたくて、
なのになんか世の中は「目標持て」とか言ってくるし、
持った方がいいのかなあ……いいんだろうなあ……
でも特に無いんだよなあ……っていう人は?


そういう人はハッピーな人生は送れないの?
そういうのはつまんない人生なの?
ってテーぜにNO!!!を突きつける本。

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感想文-本-『あなたは、なぜ、つながれないのか』

honto.jp


あとがきいわく、著者は不登校や引きこもりを経験したのち
「ナンパや催眠術に関心を持ち、実行するにまで至る人間」。
この本の内容は、そのナンパや
カウンセラーとして活動された体験を通じて生み出された、
他人と「つながる」ための考え方、方法、身体的ストレッチも。


構成は項目ごとに箇条書きで、
全体に通底する公式、というか定理、みたいなものは
特に無いのでまとまりは無く感じるのと、
読む人にとっては不要な箇所もあるかもしれない。*1


でもその分、その人にとっての新しい発見、
心に響く箇所もあるので(私はあった)、
テーマに関心がある人は興味の無い部分を飛ばしつつでも
読んでみると良いと思う。

*1:

私は一時期
コミュニケーションの方法(特に人の話の聞き方)に
関心があって同テーマの本をいくつか読んだので
それと重なる内容もあり、既知の部分が多かったため
このように感じているだろうことを付け加えたい。

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読んだ - 「海の仙人」

「海の仙人」(絲山秋子新潮文庫)

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生きて死ぬ以上、これまで出会ったひと全員と
必ず別れる、必ず。
仲違い、疎遠、振る・振られる、
病死、事故死、自殺、老衰、エトセトラ、エトセトラ。
一つずつの別れは悲しいけれど、
最終的に全てのものとおサラバするのだと思えば
違いはただその時が早いか遅いかだけで
それほど悲しむ必要は無い。
と、理屈ではわかる。
けれど現実に悲しみはなくならない。
そんな時の痛みを少しだけ分かち合ってくれる、
それが「海の仙人」。


主人公の男性である河野以外に登場するのは主に女性が二人、
それからファンタジーという名のおかしな神様もいるけれど、
女性二人のうち一人とは物語が進むうちにつながりを失くし、
一方とはそもそもつながってすらいない。
悲しい。悲しくて痛い。
けれど河野はそれを受け容れる。必要なこととして。
その河野の態度が、読む人の抱える孤独を少しやわらげる。


正直に言うと、悲しい物語はあまり好きじゃない。
悲しいとか生きる孤独とか別れの必然を表現した物語は、
私がそれらを実のところあまり信じていない
(のか信じたくないのか)せいもあり、
それほど良かったと思わないことが多い。
けれど「海の仙人」はあまりに静かに孤独を描き、
それがすぐ隣にあるふうだから、
うっかり許容してしまった。むしろ心に残った。
本当は向き合いたくない、生きていく中でときどき訪れる、
さみしさ。
人をそこから少しだけ救い出してくれる小説。
今まさに痛みを感じていなくても、
人生のどこかにさみしさがあると
知っている人に読んでもらえればと思う。

読んだ - 「夜と霧」

「夜と霧」(V・E・フランクルみすず書房)

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~人生についてこのように私に教えてくれたのは、
  「夜と霧」が初めてでした~


精神医学者だった著者が、
ナチス収容所での経験を
深い思索と強い使命感の元に記録した一冊。
名著として名高いタイトルだけど、
今までこの本を読まなかったのは、一つには
ナチスユダヤアウシュヴィッツ」というキーワードに
なんとなく人を遠巻きにさせるものがあるからだと思う。

もちろん人によってはそうじゃないと思う。
でも私には、あのとき同盟国同士だった、という知識を基に、
ナチスの仕業と日本の戦争でのもろもろ及び敗戦は
紐で結ばれたようにつながっていて、
どちらも「考えた方がいいけどちょっとめんどうくさい」。

「夜と霧」の原題は「心理学者、強制収容所を体験する」で、
この「心理学者」は著者自身のことを指している。
書かれた出来事はほとんどがとても苦しく怖ろしいのに、
それを書く著者の視線は落ち着いて客観的だ。
精神医学者として、強制収容所での人々の反応を
記述し、解明しようという強い職業的意志がそうさせたと
思うけれど、結果的に出来事が悲惨であるにもかかわらず
悲惨なことが書かれているといった雰囲気は全くない。
それはつまり、

「その場にいたユダヤ人たちに同情して
 涙をながしたりしなくてもいい」
「ドイツやナチスを責めていない、
 ひいては遠回しにドイツと仲間だった日本が
 責められてるわけでもない」


娯楽映画で涙を流すのはかまわない、
フィクションだとわかっているから。
でもそれが実際にあった出来事だと思えば、
涙を流さ「ざるをえない」し、
そのことを聞いて何も感情が動かなければ
自分は冷たい人間なのではないかと思う。
ノンフィクションには感情の半強制による
無意識の義務感がついてくる時があって、
それが「めんどうくさい」という感覚を呼び起こすのだと思う。


ナチスのしたことは良くないことだった。
日本についても戦争はしない方が絶対に良かった、絶対に。

でも「夜と霧」はドイツとかナチスとか
日本とか軍部とか天皇とかを断罪する本ではなくて、
日本に生まれてその時すでに戦後30年ぐらい経ってて戦争の話はもちろんたくさん聞いたし習ったけど体験したことはなくて人並みよりもう少しヒダリ寄りだしまじめだと思うけどでもやっぱり戦争とかちょっとめんどうくさいよね、という生き物が(つまり私が)、ナチス強制収容所には入ったことが無いしこれからも入ることはおそらくほぼ無いだろうけどでも死ぬほどではなくても40年生きてきたら意外としんどいときもあったんだよね、失恋とか結婚できないとか、そりゃもちろんユダヤ人虐殺に比べたら塵みたいなことだけどでもやっぱりしんどかったして言うか生きてれば程度の差はあれしんどいことは絶対にあるし(これを読んでくれているたぶん本がわりと好きでちょっとまじめでときどき傷つくあなたにも)、そういう時生きる意味なんて大げさな言葉がぽっと浮かんできたり、まあありていに言うと「あーーー、なんで生きてんだろなーーー」みたいな。
そんな問いに「夜と霧」は答えの一つをくれます。

「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、
 むしろひたすら、生きることが私たちから
 なにを期待しているかが問題なのだ」
「わたしの心をさいなんでいたのは、(中略)
 このすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。(中略)
 抜け出せるかどうかに意味がある生など、
 その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、
 そんな生はもともと生きるに値しないのだから」

これは、徹頭徹尾、あなたのための本なのです。
ドイツとかユダヤとかアウシュヴィッツとか関係ない。
どうやって生きてったらいいんだろな、とか、
ちょっと悩みがある、とか、そんなんじゃなくても
少し何か今と違う考え方が知りたい、とか。
そういう時に絶対に助けになってくれる本。
人は必ず生きて死ぬ、その死ぬまでを、
どうやって受け止めながら生きていくのか、という本。
ああ、こう書くとまた難しそうになっちゃうね。

でも、ページ数も本文約160ページと短いし、
その気になれば2時間ほどで読めるので、
事前情報や見た目の硬さにしばられず
気軽に読んでほしい本です。
そして気軽に読み返してほしい本です、ちょっと悩んだ時とかに。
私もそうすると思います。

読んだ - 「世界のすべての朝は」

「世界のすべての朝は」(パスカルキニャール/伽鹿舎)
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無店舗書店のsumikaさんで
装丁の美しさが気になって手に取った一冊。
私は初めて知った作家だったけれど、
著者のパスカルキニャール
現代フランス文学を代表する作家、とのこと。
めぐり逢う朝」という邦題で映画化されたのち、
九州限定の出版社である伽鹿舎から昨年復刊されている。

 
読み終えて、神話を読んだようだと思った。
上代の、神がまだ人と共に生きた時代、
言葉以外の方法で、人間以外の者どもと、
意思をやり取りした時代。
主人公のサント・コロンブは、死んだ妻と言葉を交わし、
風の低音からアリアを聞き取り、
言葉にならぬもののために音楽を奏でる。
王からの宮廷への招きを断り、
妻が残した二人の娘と演奏を続けている。
けれどそもそも、物語は四〇〇年以上前を舞台にしており、
これらすべて過ぎ去った時代の出来事に過ぎない。
時代の交代とともに、
演奏家の誉れ高かったサント・コロンブは忘れ去られ、
彼の演奏したヴィオルも知る人ぞ知る楽器になってしまった。
そののちに訪れる人間のためだけの時代が、
私たちの生きる現在まで続いている。
サント・コロンブは実在の人物であり、
小説は史実を基にしている。
 
コロンブのように浮世離れして、
しかも素晴らしい演奏をする人間が存在できたのは、
時代がまだそれを許したからではないか。
今ではそれはもう難しくなってしまったのではないか、と、
実際にはよく知らない過去への安易な憧れを感じてしまう。
 
本来なら時の流れに従って消滅するはずだった
コロンブの音楽が現代まで遺ったのは、
マラン・マレがそうしようと努めたからだ。
マレの行為は流れゆくものを留めようとする楔だった。
音楽は川の流れのようなもので、
つかまえた、と思うそばから次の波が訪れ、
目の前には常に現在の音しかなく、
けれどすでに流れ去ったメロディと
現在とのつながりが音楽の形を成している。
川の中に楔を立てる行為は空しく、
それで川を留めることはできない。
同じように、鳴り終わった音楽の楽譜を記録しても、
演奏し終えた音楽は戻ってこない。
けれど、たとえ永遠に戻ってこない音楽の
上澄みの一滴に過ぎなくとも、
マレはコロンブの音楽がすべて完全に失われることを惜しんだ。
それは、マレがコロンブの弟子でありながらも、
家族ではなく血のつながりもない、
他人だからこそ望むことのできた願いだったのではないか。
そう思うと、マレがコロンブの娘と恋仲になりながらも
結婚することなく別れたのは、
結果からみて必要なことだったようにも見える。
マレの経験した変遷が、
彼が音楽を理解するために必要だったということ。
マレの、この世で最も美しい
コロンブの音楽を遺すという望みは、果たされる。
 
にしても、コロンブが音楽に抱く執着・拘泥・誇りは
常人にはまねできないが、
コロンブの秘された音楽を聞くために
凍える窓下にひそむマレも相当どうかしている。
彼も結局音楽に憑かれた者だったのか。
いや、時を経て音楽に憑かれた者になったのか。
 
静謐で壮絶な物語を楽しむ以外に、
するすると読みやすい日本語訳や、
その中の格好良い言い回しも楽しんでほしい。
王に招聘されて断る際の台詞、
「お伝え願いたい。わたくしのようなものに目をかけられた時に、
すでに陛下はあまりに寛大であらせられた」、
いつか誰かに使ってみたい。

読んだ - 「コルシア書店の仲間たち」(須賀敦子・文春文庫)

ずいぶん前に「ユルスナールの靴」を読んだときは、
なんて美しい文章を書く作家だろうと思うと同時に、
その孤独や誇り高さに近寄りがたく、
知らず自分の生活の甘さを叱責されている気がして、
怖ろしさに読み進めることができなかった。
今もその気持ちは無いでも無いけれど、
著者の厳しさにもだいぶなじみ、
こういう人だと徐々に思えるようになってきた気がする。

 

「コルシア書店の仲間たち」は、
彼女がイタリアにいたころ夫と共に深く関わった
「コルシア・デイ・セルヴィ書店」の周囲の人々を描いた随筆で、
出てくる人たちも語られるエピソードも
それぞれ魅力的なのだけれど、
これが書かれたのが当時から
およそ30年後だということに本当に驚く。
まるで彼女の隣に座っている友人の
話を聞いているみたいだから。
良い作家はみなそうなのかもしれないけれど。
 

”あとがきにかえて”とされた文章で、
主要な登場人物の一人、ダヴィデとは
20年会っていないと書かれており、
ほかの登場人物とも、死別したり離れたり、
状況は似たようなことではと思うのだけど、
にも関わらず、よくもこれほどはっきりと、
きらびやかにその時の出来事を覚えていられるものだと
思う反面、会っていないからこそ書きえた文章なのかも
しれない、とも思う。
時間を隔てて、むかしの自分と仲間たちをながめることで、
形を取って立ち上がる記憶。
これは本当に推測でしかないけれど、
彼女のイタリア生活と日本での生活のあいだには、
結婚後5年余りで夫を亡くすという
痛ましい出来事が横たわっていて、
イタリアでの日々を思い返し綴るには、
その境界をもう一度越えて向こう側へ渡ることが
不可欠だったのではと思う。
その痛みが彼女をイタリアから引きはがして
日本へ帰国させたと思うけれど、
数十年を経て、もう一度当時を思い返し、
かたちにしようと思ったのはどういうきっかけだったのだろう。
 

私が初読の時に感じた孤独が
夫との死別に強く由来しているとしたら、
それでもその後成し遂げた多くの仕事に
誇り高さが由来するのだろうか。
その誇り高さが、
痛みを含む過去を思い起こす助けになったのだろうか。
それとも、時間が痛みをだいぶやわらげたのだろうか。
 

初めて読んだときに感じた怖ろしさは今も残っているけれど、
その時より自分を孤独だと感じる機会が格段に増え、
叱責されもすれば、孤独に寄りそってもくれる作家だと
感じるようになった。
なにより文章が本当に美しく、読んでいて心地良い。
これから私自身と須賀敦子との関係が
どのように変わっていくのか、
私の人生に対する見方が変わるにつれて、
彼女の文章との関係もまた変わっていくのかもしれない。

行ってみた - 「ほんばんわ」路地ブックスさんイベント

【今日買った本】「海の仙人」(絲山秋子新潮文庫)

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七夕の夜に路地ブックスさんのイベント、「ほんばんわ」へ。

武蔵小金井の駅を降りた時はすっかり日が暮れていた。

会場までの細い道は地元の店が連なる飲み屋通りになっていて、

お客たちが飲んだり食べたりする様子をながめるうちに

この町に住んでみたいかも、と思わせる雰囲気の良さがある。

 

イベント会場は、HASさんというイベントスペースの一階。

元々お店だった場所を改装したふうで、

レトロな内装の中に本があちこち並べられていた。

 

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内容は本の展示と販売の主に2つで、

展示の方は「願い」をテーマに選書された本に

コメントがつけられている。

選書は基本的に販売していなかったようなのだけど、

それに気づかずお会計をお願いしたら売ってもらうことができた。

「海の仙人」(絲山秋子新潮文庫)。

芥川賞作家が絶妙な語り口で描く、哀しく美しい孤独の三重奏』、

とのこと。

販売は古本やミニコミ誌が50-60冊ほどあったように思う。

詩や短歌の本が何冊かあったのが印象的だった。

あとは、地蔵についての冊子。弐百円也。

 

イベントは夏祭りを兼ねていて、駄菓子を販売したり、

親子連れが花火をしたりしていたのもとても良かった。

もう一つ、会場の二階では本の交換会が行われていて、

時折笑い声がどっと起きるから、 参加すればよかったな、

と思いながらそれを聞いていた。

次回があるなら申し込んでみようと思う。

今度は通常営業の路地ブックスさんへも行ってみよう。