読んだ - 「コルシア書店の仲間たち」(須賀敦子・文春文庫)

ずいぶん前に「ユルスナールの靴」を読んだときは、
なんて美しい文章を書く作家だろうと思うと同時に、
その孤独や誇り高さに近寄りがたく、
知らず自分の生活の甘さを叱責されている気がして、
怖ろしさに読み進めることができなかった。
今もその気持ちは無いでも無いけれど、
著者の厳しさにもだいぶなじみ、
こういう人だと徐々に思えるようになってきた気がする。

 

「コルシア書店の仲間たち」は、
彼女がイタリアにいたころ夫と共に深く関わった
「コルシア・デイ・セルヴィ書店」の周囲の人々を描いた随筆で、
出てくる人たちも語られるエピソードも
それぞれ魅力的なのだけれど、
これが書かれたのが当時から
およそ30年後だということに本当に驚く。
まるで彼女の隣に座っている友人の
話を聞いているみたいだから。
良い作家はみなそうなのかもしれないけれど。
 

”あとがきにかえて”とされた文章で、
主要な登場人物の一人、ダヴィデとは
20年会っていないと書かれており、
ほかの登場人物とも、死別したり離れたり、
状況は似たようなことではと思うのだけど、
にも関わらず、よくもこれほどはっきりと、
きらびやかにその時の出来事を覚えていられるものだと
思う反面、会っていないからこそ書きえた文章なのかも
しれない、とも思う。
時間を隔てて、むかしの自分と仲間たちをながめることで、
形を取って立ち上がる記憶。
これは本当に推測でしかないけれど、
彼女のイタリア生活と日本での生活のあいだには、
結婚後5年余りで夫を亡くすという
痛ましい出来事が横たわっていて、
イタリアでの日々を思い返し綴るには、
その境界をもう一度越えて向こう側へ渡ることが
不可欠だったのではと思う。
その痛みが彼女をイタリアから引きはがして
日本へ帰国させたと思うけれど、
数十年を経て、もう一度当時を思い返し、
かたちにしようと思ったのはどういうきっかけだったのだろう。
 

私が初読の時に感じた孤独が
夫との死別に強く由来しているとしたら、
それでもその後成し遂げた多くの仕事に
誇り高さが由来するのだろうか。
その誇り高さが、
痛みを含む過去を思い起こす助けになったのだろうか。
それとも、時間が痛みをだいぶやわらげたのだろうか。
 

初めて読んだときに感じた怖ろしさは今も残っているけれど、
その時より自分を孤独だと感じる機会が格段に増え、
叱責されもすれば、孤独に寄りそってもくれる作家だと
感じるようになった。
なにより文章が本当に美しく、読んでいて心地良い。
これから私自身と須賀敦子との関係が
どのように変わっていくのか、
私の人生に対する見方が変わるにつれて、
彼女の文章との関係もまた変わっていくのかもしれない。